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雨上がりの空は一気に澄み渡った。いまだ舗装されない路地には
いくつもの水たまりができ、空よりも青い空が鮮やかに映しだされている。
そんな小道を、一人の男があてもなさげに歩いていた。年のころは20代
後半。顔つきも体つきも若々しいが、なぜか不釣合いな口髭を生やしている
せいでどことなく不思議な印象を受ける。ぼんやり歩いているようでいて、
水たまりを巧みに交わしながら音もなく歩を進める様は、雨上がりの幻の
ようだった。
幻という言葉がこれほどふさわしい男もいない。誰もその素顔を知らず、
誰もその影さえもつかめない。「怪盗千面相」その呼び名だけが、世の中と
彼とを繋いでいた。
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2年前、突如として現れた怪盗千面相に日本中が驚愕した。大胆不敵な
犯行予告。警察を手玉に取るかのごとき変幻自在ぶり。そして何より、
一流の美術品のみを狙うその酔狂な行動の数々。人々は彼を現代の
アルセーヌ・ルパンと称してヒーロー視するようになっていた。
しかし8ヶ月前、千面相を騙る泥棒が相次いで2人逮捕されて以来、
千面相はぱったりと姿をあらわさなくなった。マスコミの作り上げた
虚像だったとか、警察関係者の策謀だとかいった噂がいくつも立ったが、
それらが消えていくにつれて人々の関心も薄れていった。唯一、散々
出し抜かれてきた警察だけが闇雲に彼を追っていた。
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「やはり風の匂いは日本では一味違うなあ。」
彼はそんなことをつぶやいた。この半年間、千面相はパリで暮らしていた。
何よりも芸術を愛する彼にとって、美術品を盗むことはちょっと風変わりな
芸術への敬意の表現であった。怪盗として華麗なデビューを果たして以来、
彼はあらゆる美術品を収集してきた。 しかし、時が経つにつれ彼の中に
ひとつの深い失望が生まれていた。自分が何かを盗んだ際、新聞はこぞって
取り上げる。千面相、1億円の絵画を奪う。千面相、時価数千万の壷を奪う。
・・・見出しに踊るのは金額ばかり。この国の人間は、値段でしか芸術を計る事
ができないのか。そんな所にしか価値を見出せないのか。虚無感を感じていた
頃、ニセモノが相次いで逮捕された。その手口のお粗末さは濡れ衣を晴らす
までもないようなものだったが、2人目のニセモノが逮捕されたとき、警官が
一人重傷を負ったというニュースを聞いて彼は日本を離れた。深い考えが
あったわけではない。何となく日本にいるのが嫌になったのだ。
自分にとってこの国は必要ないのかもしれない。そんな思いを胸に抱きながら、
彼は半年間、パリの片隅でひっそりと暮らしていた。
そんな彼が再び戻ってきたのは、故郷であるこの国にもう一度賭けてみたいと
いう気持ちがあったからだった。金額的なものではない、本当の芸術を理解
するだけのものがこの国にあるのか。それを見極めるべく、彼は戻っていた。
しばらく歩くうち、ふと彼は足を止め、道の脇に掲げられた小さな看板を見た。
「柿原美明/洋画展⇒」
個展の案内板らしい。何とも薄汚れた看板で、文字もイタズラ書き並である。
しかも矢印が指しているのは家の間にはさまれた薄暗い路地の先。おそらく、
民家の土間か何かを間借りして催しているのだろう。
入ってみようなどとは間違っても思わないその個展に、千面相はかえって興味
をそそられた。聞いたこともないが、柿原画伯、いかなる人物か。どうせ特に
することもない。まっすぐに路地に向かった千面相は、音もなくその奥へと
進んでいった。
個展に客として訪れているのだから堂々と入ればいいのだが、染み付いた習慣
は根深い。彼はまるで影のように中に入った。薄暗く、誰もいないのかと
思ったが壁際の椅子で一人の男性が腕組みしたまま寝入っていた。恐らくは
彼が柿原画伯だろうと千面相は思った。無意識に気配を殺していたとはいえ、
柿原氏は全く目を覚ます気配がない。よっぽど疲れているのか、それとも客が
来なくて暇なのか。
(両方だろうな)と思って納得するのにこの画家のさえない風貌は充分だった。
貧乏を絵に描いたような絵描きだな・・・そんなことを考えつつ室内を見渡した
千面相は、思わず息を呑んだ。
部屋の薄暗さに目が慣れるにつれ、狭い室内の壁を埋め尽くした絵が浮かび
上がってきた。躍動感あふれる筆致。そのうねりは一枚の絵から隣の絵へと
つながり、まるで壁全体が脈動しているかのような錯覚を覚える。明るい照明
の下に鎮座したおざなりの絵画では感じ得ないこの空間との一体感。こんな所
で個展をやっているのは金が無いから、というのは間違いではなかろうが、
狭さ、暗さをも取り込んで空間を自分の作品にしてしまっているのは並外れた
表現力である。荒削りで未完成ではあるが、ここには紛れもない芸術がある。
千面相は目の前で眠りこけている柿原画伯にすっかり敬服していた。
こんな男が日本にいたとは・・・。あの男は間違いなく大物となる可能性を
秘めている。あの男に賭けてみよう。路地を出るまでに千面相は心を決めた。
その日のうちに彼は行動を起こした。
千面相から犯行予告状が届いた!手詰まり感を見せていた捜査本部の面々は
沸き立った。しかし、その内容には誰もが首をかしげた。柿原画伯なる人物は
聞いたこともない。文面にあった画廊を訪ねてみたが、そのみすぼらしさと
うらぶれた柿原氏の風貌にますます不信の念が募る。何でよりによって千面相
がこんな貧乏画家の一銭の価値もない作品を狙うものか。
「イタズラじゃないのか」
誰ともなく発せられたその言葉が皆の内にたちまち広がった。過去、二度に渡っ
てニセモノに振り回された捜査員にとってそれはいかにもありそうなことに
感じられた。自身も予告状を受け取っていた柿原氏はすがるように助けを求め
たが、「売名をねらった狂言」という疑いをかけられてすっかり肩を落とし、
アパートに閉じこもってしまった。
2日後の夜。犯行予告時間が近づいていた。しかし予告状を出した直後から
密かに警察の動きを探っていた千面相は、自分の予告がイタズラと判断され
何の警備もなされていないことをすでに知っていた。
予告の11時。真っ暗な画廊にやってきた千面相は明かりをつけ、誰もいない
寒々とした中で暗い思いにふけっていた。
千面相は一流の美術品を狙う怪盗だ。なのに警察の人間にはここにある作品の
価値が本当にわからないのか。値段のついていない芸術には価値がないのか。
やはりこの国には芸術を愛する気持ちはないのか・・・。
暗澹たる思いで佇んでいたその時、背後に気配を感じた千面相は振り返るより
先にひらりと身をかわした。一人の少年が勢い余ってつんのめり、転びそうに
なってかろうじて踏みとどまった。 「!?」千面相は、自分に向き直った
少年をいぶかしげに眺めた。
年は12歳か13歳といったところか。あどけなさがかなり残る穏やかな
顔立ちの少年がほうきを自分のほうに向け、必死の形相でにらみつけていた。
画伯の知り合いか?と考える間もなく、少年は闇雲にほうきを振り回し、再び
向かってきた。右に左に苦もなくかわす千面相に対し、少年は叫ぶ。
「出て行け!お前なんかに先生の芸術を汚されてたまるかぁ!早くでていけぇ!」
バサッ。
振り回していたほうきがまともに千面相の頭を捉えた。彼は身じろぎ一つ
しなかったが、少年はほうきが「当たった」という事に逆に驚いてしまった。
それまで無我夢中だったが、それがきっかけで初めて恐怖が芽生えたのだろう。
少年はそのまま固まってしまった。
しばしの沈黙の後、千面相はゆっくりとほうきを頭からどけて少年の目をじっ
と見つめた。恐怖に満ちてはいるが、何かを守ろうとする意志が何より強く
感じられる、澄んだ目だった。何となく、水たまりに映った空が心に浮かんだ。
「君は誰だ?画伯の知り合いかなにかかね?」穏やかな声で彼は尋ねた。
その言葉で金縛りが解けたのか、少年は少し震えた声で答えた。
「ぼ、僕は野比のび助。柿原先生に絵を習ってるんだ!」
「柿原画伯を尊敬しているのかね?」頭についたほこりやゴミをはらいもせず、
千面相は尋ねた。
「あたり前だい!先生はすごい芸術家なんだぞ!お前なんかにわかるはず・・・」
大声で叫ぶその言葉はやがて涙声になってかすれた。それを聞いた千面相は
かすかに笑って言った。
「私もだよ。」
思いもかけない言葉に戸惑うのび助の脇をゆっくりとすり抜けながら千面相は
言った。
「今日は君に免じてこのまま帰ることにするよ。頑張りたまえ、のび助くん。」
戸口まで来た千面相はつと足を止め、のび助に背を向けたまま少し厳しい声で
言った。
「だが、これだけは言っておく。いつか時が来たら、私はもう一度画伯の絵を
貰い受けに参上する。いいな。これは約束だ。私と、君の。」
それを聞いてのび助がハッと戸口のほうを振り返った時、千面相の姿はすでに
そこにはなかった。
結局、画伯の絵が奪われなかったことで予告状は誰かのイタズラと断定され、
事件にならないまま忘れ去られた。
しかしその一ヶ月後、千面相は再び華麗に姿をあらわした。それまでの沈黙の
鬱憤を晴らすかのごとく、前以上に大胆不敵な犯行を重ねる彼に警察も世間も
完全に翻弄された。
そのうち、世間の観点は少し変わった。いったい千面相はどんな物を好んで
盗むのか。美術的な観点から検証されるようになったのだ。さらには千面相が
収集した美術品の目録という体裁の美術研究書が発行され、彼が次に狙う獲物
を美術検証の面から予測するという捜査方法までが導入されるに至ったの
である。警察と千面相の駆け引きは次第に高度なものとなり、捜査の経緯が
発表されるにつれて人々の美術に関する関心も高まってきたように見えた。
そして、千面相はそんな空気を楽しむかのように犯行を重ねていた。
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それから、どのくらいの歳月が流れただろうか。
本格的に夏の到来を思わせる8月のとある日曜日。ここ国立大日本美術館に
おいて、洋画の世界的大家、柿原画伯の集大成とも言うべき作品展が開催され
ていた。そして、そこにのび助の姿があった。彼は妻の玉子と2歳になった
ばかりの息子のび太を連れ、恩師の作品展に足を運んでいたのだった。
画伯は来館していなかったが、会場はかなりの人でごった返していた。
ひとしきり会場を回ったのび助は、画伯の初期の作品を展示したコーナーで
足を止めた。自分が絵を習っていた頃の作品だった。
「懐かしいなあ。この頃の作品って、荒削りだけどやっぱり凄い・・・。」
誰にともなくそう呟いたのび助の隣で、
「私もそう思います。」
と小さな声がした。目をやると、すぐ隣の絵を見つめている上品な老人の
姿があった。何となく親しみを感じたのび助は、老人に話しかけた。
「実は僕、子供の頃に柿原先生に絵を習っていたことがあるんですよ。今では
すっかりあきらめましたけどね。でも、本当に憧れていました。先生のあの
才能と、芸術を愛する情熱に・・・。」
それまで絵のほうを向いていた老人が、初めてのび助の方に向き直った。
視線が合ったのび助に不思議な感覚が沸いた。前にもこうして、この目で
見つめられたことがあったような気がする。いつだったっけ?あれは・・・
視線を合わせた時間は短かった。傍らにいた玉子の腕の中でのび太がぐずり
始めたのだ。「あらあらのびちゃん。おねむになったの?」玉子の声に
反射的に顔を向けたのび助が振り返った時、すでに老人の姿はなかった。
会場を見回すと、丸い背中がゆっくりと出口に向かうのが見えた。
(気のせいだろう)そう思ったのび助は、振り返ってのび太をあやし始めた。
会場を後にした老人は、蝉の声に包まれた公園の木立の中に入っていった。
茂みの中に身を潜め、カツラと付け髭をむしり取った中から現れたのは
まぎれもなく千面相だった。年齢を重ねて威厳を増した顔に、口髭が似合う。
彼は今日、この美術館の下見に来ていた。さすが洋画の世界的大家の作品展
だけあって、警備のほうも尋常ではなかった。どこの入り口にも警備員が最低
でも2人ずつ配され、監視カメラも至る所に設置されている。私服警備員と
おぼしき男も何人か見かけた。まさに水も漏らさない。千面相は自分の中の
昂ぶりを確かに感じていた。
そして、彼がいた。
あの日、たった一人で自分に向かってきた少年。その幼い一撃を受けた事で、
彼の悩みや迷いは立ち消えた。この国には芸術を生み出す者がいる。そして
それを愛し、必死に守ろうとする者がいる。それを確信した彼は、再び日本を
信じ、日本での活動を始めたのだった。
そして間もなく、自分の思いが間違っていなかったことを感じる機会が何度か
あった。手ごわくなった警察の捜査。自分よりも、手に入れた物の美術的価値
を重視しているかのような新聞報道。そして何より、自分が狙った事とは全く
関係のないままに世の中に認められていった柿原画伯の芸術・・・。
そんな世の中に千面相は昔とは違う手ごたえを感じていた。
過去最大の柿原画伯の作品展が開催されたのは先月のことだった。この作品展
の開催を知った時、千面相は決めていた。今こそ、約束を果たす時だと。多分
あの少年は自分のことなど覚えてはいないだろう。今では自分の知らない
どこかで幸せに暮らしているのだろう。会えることは全く期待していなかった。
しかし、何となく予感はあったのかもしれない。隣に立った瞬間に彼だと直感
した。家庭を持ち、絵はあきらめたと言っていた。しかし、懐かしげに画伯の
絵を眺める眼差しは昔と全く変わっていなかった。彼のようなものがいる限り、
自分は千面相として生き続ける。それが芸術を愛する怪盗の生き様なのだから。
舞台は整った。最高の観客にも会えた。後は、このステージを一緒に演出して
くれる共演者たちを招待するだけである!
笑みを浮かべた千面相は、隠しておいた変装道具のバッグを開けた。そこには、
最近何度も使っているせいかすっかり顔に馴染んできた感のある須羽ミツ夫の
母親のマスクがあった。その感触を確かめ、彼は軽やかに音もなく歩き始めた。
蝉の合唱が響く並木道を、千面相は心の中で高らかに笑いながら歩いていった。
【完】
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