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「夏草の線路」
このまま気付かずに
通り過ぎてしまえなくて
どこまで歩いても
終わりのない 夏の線路
いつでも眼差しは
まぶし過ぎる 空を越えて
どんなに離れても
遠く君に 続く線路
遊佐未森〜夏草の線路〜『HOPE』より
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初夏の空は、深く、蒼く澄み渡っていた。
海沿いにあるローカル線の小さ過ぎる駅。石段を降りれば古い家々が軒を連ね、
線路の向こうには防砂林を隔てて海が広がっている。高台に位置しているため、
海はかなり遠くまで見渡せる。
線路は右側は駅のすぐ手前で大きく右にカーブし、そのままトンネルに入る。
左側は山沿いをどこまでもまっすぐ伸びていた。
聞こえてくるのは微かな波の音と海風の音色、それに蝉の声だけ。
ホームの端に据えつけられた古いベンチに、彼らは座っていた。
おそらくは雑種と思われる大型の犬が日差しを避けて寝そべる横に、橙色の
マスクと水色のマントを付けたチンパンジーがぼんやりと腰かけている。
端から見れば、かなり奇妙な取り合わせである。
ベンチも看板も全てが色褪せ古ぼけているこの駅で、時折り風にはためく
マントの端の水色がひときわ鮮やかなコントラストを醸していた。
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この前日、ブービーとジョンは、かねてからの計画だった一泊の海水浴旅行に
来ていた。これまで夜中にこっそり出向いた事はあったが、やはり海水浴と
言えば降り注ぐ太陽の下で…という事で、2人はずっと機会を伺っていた。
そして、ジョンの飼い主一家が親戚宅へ泊まりがけで出向いたこの日、ついに
計画を実行に移したのだった。
問題になるのは2人のアリバイ工作の両立である。ブービー自身は終日家に
いる必要があるが、ジョンは飼い主に頼まれて日に2度えさをやりに来る近所
のおばさんさえクリアすれば何とかなる。そこでブービーは裏技を使った。
2人で同時にコピーロボットの鼻を押す「ダブルコピー」。かつてミツ夫の
コピーロボットを探す際に偶然発見した、かなり無茶なテクニックだ。
2人の特性を同時に読み込んだコピーは、軽い衝撃を与えることでどちらにも
なれる。あまり変わり過ぎると両方の特性が混ざってしまう危険性があるが、
一泊旅行の間ならせいぜい2、3回。その程度の変身なら混乱の危険がない事は、
すでに実験済みだった。
かくして2人はまんまと街を脱出。前もってブービーが見つけておいた小さな
浜に陣取った。ここは周囲を断崖に囲まれており、遠浅のためボートも近付け
ない。気兼ねなくマスクを取って遊ぶにはうってつけの場所だった。2人は
遊び、食べ、眠り、丸一日存分に初夏の海を楽しみ尽くして帰路に就いたのだった。
電車に乗る必要など無いし、第一乗れるはずもなかったが、ブービーはあえて
帰る前の小休止にこの駅を選んだ。日差しは強いが、さすが海沿いの高台だけ
あって風は涼しく、暑さは気にならない。何より、全ての音が心地よい調和を
以って奏でる静寂が気に入った。
慌ただしい日常に戻る前のひとときを味わうのに、これ以上の場所はないと
いっても大げさではなかった。
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遊んだ後の心地よい気だるさと、夏の静寂。それが、ブービーの心を裸にした。
背もたれに頭をゆだね、空を見上げる。蒼さが目に焼きつく。
午後の日差しは、ブービーの頬にマスクの濃い影を落としていた。その頬に、
涙がひとすじ流れて微かな跡が残る。全く同じ軌跡で、涙は幾度も流れて落ちた。
身じろぎ一つせず、黙って空を凝視するブービー。彼に泣いているという自覚は
なかった。声すらもあげなかった。彼はただ思い出していた。かつて見た空を。
1号と悪ふざけしながら飛んだ空。寒さに震え、3号のマントにもぐりこんで
飛んだ冬の空。全員でパータッチし、遠い異国を目指して全速力で飛んだ空。
どれも、この空と同じくらい蒼かった。そして、独りで飛ぶ今も。
ジョンは黙ってブービーの横顔を見ていた。最近よく見る顔だった。涙まで流す
のは初めて見たが、この駅の静寂が彼の寂しさを浮き彫りにしたのかもしれない。
パーマン1号が旅立って4年の月日が流れていた。そして2年近く前、3号も
正体を明かすことなくパーマンを勇退していた。大阪の4号も高校生になり、
そうそう東京に出向くことも出来なくなっていた。
いつしか2人が共同で仕事に当たる機会は減り、西の4号、東の2号という
不文律が出来た。別に仲たがいしたわけではないが、2人は疎遠になっていた。
その頃からブービーが自分を連れ出す機会が増えたと、ジョンは思い出していた。
かつては鎖につながれたままの自分のためにブービーが骨を折ってくれていたが、
最近ではジョンがブービーに付き合う、という色合いが強くなっていた。
理由は聞くまでもなかった。今のブービーにはブービーとして、そして同時に
パーマン2号として気兼ねなく話せる相手は自分しかいないからだ。1度も口
には出したことはないが、ジョンにはブービーの孤独は充分すぎるくらい強く
伝わっていた。
しかし、こんな時のブービーに自分の言葉は空々しく響くだけだということは
わかっていた。孤独を分かち合い、その悲しみを受け止めるには自分はあまり
にも背負うものがなさすぎる。
自分に出来ることは、ただそばにいることだけ。
時間の経過につれて日陰の位置が少し変わっている。それに合わせて座り方を
変えたジョンは、トンネルの方から聞こえてきた電車の音に耳を向けた。
トンネルを抜けてきた黄緑色の電車がゆっくりと停車した。潮風にさらされ、
古びた車体に錆びがアクセントをつけている。2両編成の小さな電車だったが、
それでも後ろの車両はなかばホームからはみ出していた。
降りたのは大荷物を持った親子3人連れと、小柄な老婦人だった。
久し振りの帰省か何かなのだろうか。両親に連れられた小さな女の子はドアが
空くのを待ちかねたように飛び出し、ホームを駆け出す。
と、目の前に座っているブービーとジョンを見た彼女は目を丸くし、踵を帰すと
父親のもとへ駆け戻って足にしがみついた。おそらく肝をつぶしたのだろう。
無理もない。ジョンはもともとかなり大柄な犬だが、ブービーもこの頃には昔の
ミツ夫と同じくらいに体が大きくなっていた。そんなあやしげな動物2匹に
いきなり出くわしたら、誰だってビックリするに決まってる。両親もかなり
動揺したらしく、視線を向けないようにしてそそくさと狭い石段を降りていった。
間もなく、電車は滑るように走り出した。
ブービーは終始、電車にも降りた客にもほとんど注意を向けなかった。依然と
して彼はぼんやりと空に心を飛ばしていた。
いくらか蝉の声が落ち着いてきたような気がした。
ふとブービーは自分の横に気配を感じ、顔を向けた。先ほど電車から降りた
老婦人が、ベンチの反対の端に座っていた。
ブービーとジョンは不審の目で彼女を見た。どうしてこんなところに座っている
のだろうか。この駅は別に乗り換えのポイントになっているわけでもない。誰か
迎えの人間を待っているのか。それとも、降りる駅を間違えたのか。
少し心配の色を浮かべたブービーの目が、老婦人の目と合った。怯えるかに
見えた彼女は、意外にもにっこりと微笑むと話し掛けてきた。
「こんにちは。」
小さいが、よく通る澄んだ声だった。
不意を突かれたブービーは、それでも軽く会釈して応えた。
「あなたたち、お友達なの?いいわねえ。」
まるで、人間に話し掛けているかのようなごく自然な口調だった。少し警戒心
を解いたブービーは、かすかな笑みを浮かべるとうなずいた。ジョンも尻尾を
軽く振って応える。
「でもあなた、お友達と一緒にいるのに、ずいぶん寂しそうに見えたわね。
なにかあったの?」
そう言われたブービーは何だか不思議な感覚を覚えた。見透かされていると
いうよりも、むしろ全てを知った上で本気で心配してくれているような口調。
悟られたという不信感を抱く代わりに奇妙な心の開放を感じたブービーは、黙って
ジョンのほうを向いた。マスクを半分だけ持ち上げると、中から透明の薄い
ビニールケースを取り出す。
マスクの形と暑さで少し丸く変形したそのケースの中には、1枚の写真があった。
しばしそれを見つめたブービーは、黙って老婦人に差し出した。
4人のパーマンの笑顔がそこにあった。1号が出発する直前に、バードマンが
撮ってくれた記念写真だった。
1号の腕を取るパー子は、少し寂しげに、それでも明るく笑っていた。
1号もまた、ちょっと照れながらも腕を突き出し、笑顔を見せていた。
皆の後ろで、パーやんは包み込むような笑顔を浮かべていた。
そしてブービーは、去り行く1号に抱き付き、最高の笑顔を向けていた。
ほんの少し色褪せてはいるが、ブービーの心の中では褪せることのない記憶。
彼にとっての宝物だった。
老婦人は、しばし写真を見つめていた。短い沈黙の後、写真に視線を落とした
まま呟く。
「あなたの、1番のお友達なのね。みんな、すごくいい顔してるわね。
あなたにとっての…最高の宝物なのね……」
そう言った老婦人は、不意にクッと声を詰まらせた。
それを耳にした瞬間、ブービーの心の堰はあふれた。不意にあふれて来た涙を、
止める術がなかった。乾き切ったアスファルトの地面に、涙の跡がいくつも
生まれる。背を丸めたブービーは、嗚咽の声を漏らして泣き出した。
1号が旅立って4年。3号が去って2年弱。
初めてブービーは大声で泣いた。ずっと心にしまい込んでいた涙が、とめども
なくあふれた。人気のない初夏の駅の静寂に、その泣き声が吸い込まれていった。
「そう。」
ブービーの肩に手を置いた老婦人は優しく語りかけた。
「ずっと寂しさを心の中にしまい込んでいたのね。それはつらかったでしょう。
でもね、我慢することないの。本当に寂しくなった時は、思いっきりお泣き
なさい。それがいちばん寂しさを切り払ってくれるから。お泣きなさい。」
その言葉は、まるで魔法のようにブービーの心に響いた。こんな簡単な事だった
のだ。ただ思い出し、泣けばいい。そうする事が、自分の気持ちを確かめる
一番の方法だったのだ。
心地よい涙は、ブービーの孤独を洗い流していった。
ひときわ強い風が、涙をぬぐったブービーの頬をなでていった。
そろそろ、帰ろう。再びマスクに写真を収め、ジョンの方に向き直ったブービーの
顔は、明るさを取り戻していた。ジョンも一声、大きく吠えて応える。
笑顔で自分を見つめたブービーに、老婦人も笑顔を返した。
「会えない日を数えるんじゃないの。会えなかった日を悲しむんじゃないの。
いつか、必ずまた会える。その日を楽しみにするの。そうすれば、お友達は
いつも一緒にいるわ。あなたの笑顔の中に。」
ブービーは、最高の笑顔を見せてうなずいた。
あの写真と同じ笑顔。
みんなと同じ、あの笑顔を。
ジョンを抱え上げ、少し宙に浮かんだブービーはもう一度老婦人を見た。
目で問う。
あなたは、大丈夫?
予想通り、老婦人は自分の気持ちを察してくれた。
「私のことを心配してくれるの?ありがとう。大丈夫よ。私はちょっと、人を
待ってるだけだから。さ、お帰りなさい。あなた達のおうちへ。」
その言葉を受け、笑顔を見せたブービーは一気に上昇した。最後に一瞥すると、
小さくなった老婦人が手を振るのが見えた。ブービーも大きく手を振る。
はずみで落ちそうになったジョンは肝を冷やしたが、それでも彼も大きく吠えて
精一杯の感謝を伝えた。
潮風の中を、ブービーとジョンは線路に沿って一直線に飛んだ。
どこまでも続く線路。いつか、みんなに続く線路。
ブービーは、線路に落ちた自分の影がほんの一瞬、4人に見えた気がした。
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その日の夕方。
都内のマンションのドアの前で、鍵を開ける老婦人の姿があった。
少し慌ただしい手つきで鍵を開けた老婦人は、滑るように中に入った。
夕暮れ時の玄関は完全に影になっている。履物を脱ぐ前に、老婦人は両手を
頭の後ろへ回した。髪止めを外すような手つきで止め具を外すと、「顔」が
すっぽりと外れる。いや、髪の毛ごと「頭」が外れた、といったほうが正確だった。
中から、少女の顔が現れた。頭には山吹色のカチューシャ。
いくぶん背が伸び、髪型も少し変わっていた。
しかし、それはまぎれもない、星野スミレだった。
彼女はこの日、老婆に変装して足の向くまま海沿いの電車に乗っていた。
この変装道具はかつて、千面相が街のあちこちに隠しておいたもののひとつである。
何年か前、まだ1号がいた頃。パー子達3人は千面相の協力を得て悪質な
ひったくり犯を捕まえたことがあった。その際、千面相がいたるところに変装
の道具を隠していることを知ったパー子は、どうしてもそれが欲しくなった。
他人を完璧に演じ切る千面相に同じ演技者としてひそかな憧れを抱いていた
パー子は、それを手に入れることで彼の技術を少しでも習得できるかも、と
考えたのだ。
そして仲間には内緒でパトロールの合間にあちこち捜索し続けた彼女は、
ついに公園のマンホールで一式の道具が入ったバッグを見つけた。
その中には老婆のマスクと腰の曲がった姿勢を維持する特殊な構造の和服が
収められていた。しかし、さすがにどれも自分には少し大き過ぎた。それに、
いくら何でも小学生の自分が老人に化けるのは無理がある。
(またいつか、機会があったら。)パー子はそれを、クローゼットの奥深くに
しまい込んだ。
そして、昨日。
短い夏休みが取れたスミレは、久し振りに大掛かりな部屋の掃除をしていた。
クローゼットの中の物を整理していた彼女は、茶色のバッグに目を止めた。
あれから何年経っただろうか。すっかり忘れていた、変装道具だった。
中に収められていた老婆のマスクには傷み一つなかった。
(ねえ、久し振りにマスクを着けてみない?きっと違う自分になれるわよ。
そうすれば、きっと新しい出会いが、新しい発見があるわ。)
そんなイタズラっぽい誘いの声が聞こえた気がした。スミレは、マスクを被る
と和服をまとってみた。
鏡の前に立った彼女は、改めて千面相の技術の高さに感嘆した。ただ簡単に
マスクと服を羽織っただけなのに、そこにいるのはどう見ても見ず知らずの
優しそうな老婦人だった。
演技者としての情熱とイタズラ心に火が点いたスミレは掃除そっちのけで変装
の練習に没頭した。かつて出会ったあのおばあさんの所作を思い浮かべながら、
細かい仕種や歩き方を練習する。作り声には少し手こずったが、小声で話せば
何とかなる。何より、そんなに話す機会などないだろう。
自信を深めたスミレは次の日の朝、さっそく街へと繰り出した。
かすかな心配はすぐに消えた。どこへ行っても、誰も自分の正体には気付かない。
彼女はすっかり楽しくなり、心ゆくまで散策を楽しんだ。
(海が見たい。)
そう思い立ったのは、正午過ぎだった。休みの日にマネージャーに車で連れて
行ってもらったことは何度かあったが、彼女は海沿いの電車の車窓から海を
眺めてみたかった。普段なら間違ってもできないことだけど、今日なら。
思い立ったら彼女の実行は早い。路線を2回変え、古ぼけたローカル線に乗った
のは2時間も経たない頃だった。
錆びの目立つ黄緑色の電車は、彼女を海へと、そしてトンネルの向こうの小さな
駅へといざなった。
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止め具を外す手はひどくもどかしかった。着脱にはそんなに手間はかからない
のだが、これ以上はもう我慢できない。
このマスクは着けたままでの呼吸や食事が自由自在なのはもちろん、通気性が
高いので長時間の着用もまったく気にならないし、かなり細かい表情も表現する
ことができる。
だけど、たったひとつ。
着けたまま、泣くことだけはできないのだ。
震える手でマスクを外したのと、大粒の涙があふれ出したのはほぼ同時だった。
そのまま、スミレは玄関先で泣き崩れた。嗚咽を漏らしながら何度もつぶやく。
「ごめんなさい、ブービー…ごめんなさい………」
部屋はかなり高い階にある。それでも、街路樹から気の早いヒグラシの声が
かすかに聞こえていた。
夕日は、人気のない部屋に斜めの影を色濃く映していた。
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電車の心地良い揺れを楽しんでいたあの時。
トンネルを抜けた先の小さな駅を見やったスミレは懐かしい姿を目にした。
いくぶん背が伸びてはいるが、間違えようがない。ブービーだ。その脇には、
彼の友達のジョンもいる。
考えるよりも先に、彼女はその駅に降り立った。
しかし、声の掛けようがなかった。ブービーはかつて見たことのない孤独を
まとっていた。
あの明るく陽気なブービーが。自分の姿に驚いて怯える少女の姿を見ようとも
しない。目の前の現実に、スミレはかけるべき言葉を失った。
これといった考えが浮かばないまま、とりあえず彼女はベンチの端に座った。
今、パー子として名乗る事は絶対できないと思った。もちろん、話をややこしく
するとか、ブービー自身に不信と混乱を招く、といった配慮もあった。しかし、
問題はそんな事ではなかった。何だか、パー子としての自分を明かすことで、
この静寂が崩れてしまうような気がしたのだ。
迷った末、彼女はあくまで老婦人でいることを通すことに決めた。
そして、結果的にそのことでスミレはブービーの裸の心を初めて知った。
4年前、ミツ夫を送り出したときも。2年近く前、自分が別れを告げた時も。
ブービーはいつもとまったく変わらない笑顔で手を振ってくれた。自分にも、
餞別のバナナをくれた。あの時触れた、あの子の手のかすかな震えの意味を。
自分はわかってやれなかった。
どうすることもできない後悔と自責の念に、スミレはただ泣くしかなかった。
ミツ夫や自分が自ら選んだ新しい道を、思い残すことなく歩めるように。
あの子は自分の中の一切の感情を殺して笑いかけてくれていたのだ。
あの子は誰よりも優しかった。
そして、誰にも言えない孤独の中で、誰よりも苦しんでいた。
泣く事さえも思いつかないままに。
もしもパー子だと名乗っていたなら、あの子はまた、あくまで明るく振る舞った
に違いない。
その確信が、たまらなく寂しかった。
どのくらい経っただろうか。
スミレはそっと立ち上がると和服の乱れを直し、そっと草履を脱いで寝室へ
向かった。
ベッドには西日が窓枠の形をくっきりと映し出している。
枕もとにある小さな袖机の引出しを開けたスミレは、その中に収めてある青い
フォトフレームを取り出した。そっと開いたその中には。
ブービーが見せてくれたものと同じ写真が収められていた。
ミツ夫の事を忘れた日は、1日もなかった。
しかし、パーマンの事、ブービーの事を忘れた日がなかったといえば、嘘になる。
パーマンを辞めたのは、自分なりに悩み、納得した上での結論だった。そして、
自分には「きっと君のもとに帰ってくる」というミツ夫の言葉があった。
だから寂しさこそあれ、何かを失ったという感覚はなかった。
しかしブービーは、何一つ確信を持てる言葉のないまま2度に渡る大きな喪失に
必死に絶えていたのだ。
自分の鈍感さは、悔やみきれるものではないように思われた。
(だけど。)写真にそっと手を重ねながら、スミレは思った。
今、パー子として、安易な気持ちでブービーに声をかけることは許されない。
それこそが、彼の優しさと強さを踏みにじる行為に他ならないからだ。
大丈夫。あの子ならきっと乗り越えてくれる。
だって、あたしの尊敬すべき先輩、パーマン2号だもの。
それに今日、偶然の導きで出会い、ちょっと不思議な形ではあったけど、一番
大事なことは伝えられた。
本当に寂しい時には、思いっきり泣けばいい。
会えない日を数えるのではなく、会えなかった日を悲しむのではなく、
いつかきっと会える日を楽しみにすればいい。
眠れない夜。涙で目覚めた朝。何度も何度も自分に言い聞かせた言葉だった。
つたない言葉ではあったけど、ブービーの心には伝えられた。
最後に見せてくれたあの笑顔が、それを何よりも強く確信させてくれた。
いつか、ミツ夫さんが帰ってきたら。
その時、ブービーがまだ自分のことを大切に思ってくれていたら。
その時は会いに行こう。
そして、また一緒に飛ぼう。
手と手。 心と心。 つないでみんなで飛ぼう。
あの蒼い空へ。
スミレはフォトスタンドをそっと袖机の上に立てた。
さっきよりも赤味を増した夕日に照らされ、皆の笑顔はまぶしく輝いた。
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遊んだ翌日の疲れから眠りこけていたブービーは、バッジの呼び出し音で
飛び起きた。
本当に久し振りの、パーやんからの応援要請だった。
手早くコピーを起動させてパー着すると、一気に窓から飛び出して上昇する。
隣の庭から、ジョンがひときわ大きな激励の吠え声を上げた。
笑顔で手を振ったブービーは、方向を確認すると一気に全速力で飛び去った。
時速119キロ。
しかし彼の心は、時速476キロで大空を疾駆していた。
抜けるように澄み渡った蒼い空。
その蒼に溶け込んでしまいそうな鮮やかな水色のマントが、彼の思いをはらんで
雄々しくはためいていた。
================【完】=================
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