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闇だった。
さして広くない箱状の部屋の中は、赤い光にわずかに照らされている。
しかし、その光にぼんやりと浮かんだ互いの濃い影は、何も見えない真の暗闇
以上に自分たちを囲む闇を実感させた。
お互い、相手のことをじっと見ていた。
とはいっても、2人とも顔には黒い影が落ちている。双眸を窺う事は出来ない。
どのくらいこうしていたのだろうか。随分経ったようにも思えるし、ほんの
わずかな時間しか経ってないようにも思える。
かすかな物音は絶えず聞こえていた。
しかし、壁を隔てた音は、自分たちの居る空間の静寂を余計に際立たせていた。
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「さあて。」
沈黙を破ったのは、背の高い男の方だった。
「どのくらい経ったのかな。あるいはあとどのくらいこうしていればいいのか…、
まあ、どっちでも良いが。」
「知らないよ。」
答えたのは、少年の声だった。背の高い男から視線を逸らし、かなり投げやりな
調子で言葉をつなぐ。
「なんだってこんなところにいるんだろ。急いでるっていうのに。」
「フン。…あんまり、怖がってはいないようだ。大したもんだな。」
軽く笑い声を立てながら、男は言った。
「歳の割に度胸は据わっとるようだな。あんまり可愛くはないが、ま、こんな
所で泣き喚かれるよりはずっと良い。」
その言葉を聞き、少年はキッと男を見据えた。ぼんやりとに照らされた双眸に、
厳しい光が宿っているのがかすかに見える。
「なんだい、えらそうに。自分だってどうしようもないんだろ。あんまり僕を
子供あつかいしないでよね。」
(子供だろうが)
という言葉をぐっと呑み込んだ男は、嘆息を漏らすと少し自嘲気味に呟いた。
「しかるべき準備をしていたなら、こんな所はすぐにでも出て行ってやるさ。
だが、無から出来ることなどたかが知れている。出来ることと出来ないことが
ハッキリと線引きされている、それが科学という物だ。」
「科学?」
思いもかけない言葉に、少年は興味深げに声を上げた。
「おじさん、科学者さんなの?」
その言葉を聞いた男の口もとに、ちょっと皮肉っぽい薄笑いが浮かんだ。
「ああ。だが。」
男は右手を少年の顔の前にかざすと、人差し指を立てて言った。
「『天才』と付けるのを忘れるな。」
普通に聞けば尊大そのものの一言だったが、幼さゆえか少年は素直だった。
「へえっ、天才の科学者さんなんだ!じゃあいろいろとスゴイものを作ったり
してるの!?世の中の役に立つようなものを!」
「…役に立つ物?」
聞き流していた男は、最後の言葉に訝しげに反応した。
「さあな。私の作り出す物が直ちに世のために役に立つかどうかは知らん。
というより、その事にはあまり興味はない。」
「どうして?科学って、ひとのしあわせのためにあるんでしょ?前にパパが
そういってたよ。」
不思議そうな少年の声に、男はしばしの沈黙を置いて低い声で答えた。
「違うな。科学とは人の為にあるのではない。科学自身の為にあるものだ。」
座り直した男は、訝しげな少年の眼差しをまっすぐに見返すと続けた。
「科学が導き出す真実は単純で、実に美しいものだ。私のような科学者は、
その美しい真実を見つける為に自分の持てる力を捧げる。誰の為でもない。
全ては科学自身の為だ。そこには、正しい事も、間違った事も意味がない。」
自分にはいささか難し過ぎる話だ。少年は戸惑いつつ、必死に考えて言った。
「じゃあ、その…つまり、悪いことに科学をつかってもいいってこと?」
「悪い事?…そうだな。悪い事、か。」
男はちょっと視線を泳がせた。
言葉を探している様だった。やがてゆっくりと答える。
「それを決めるのは、私ではない。人は、科学が導き出した真実、科学が生み
出した恩恵を様々な形で自分の物としていく。それぞれの形でな。その形は
人によって全く違うのもしばしばだ。私にさえ、想像もつかん。同じ物でも、
ある人はそれで何百万もの人に感動と恩恵をもたらし、ある人はそれ以上の人に
悲しみと苦しみをもたらしたりするものだ。だがそこに、その物を見つけた
人の思いが残っている事はあまりない。」
「わかんないよ、そんなの。」
音を上げたかのように少年が言った。
「じゃあ、おじさんはどうなの?もし自分のつくったものが悪いことに使われた
としたら、どう思うの?」
間をおかずに男は答えた。
「さっきも言ったろう。どう使われようが、あまり興味はない。その使い方が
悪いのかどうか、にもな。」
さらに言葉を返そうとする少年を遮り、男は声の調子を変えた。
「君はダイナマイトというのを知ってるか?」
意外な問いにキョトンとした少年は、それでも頷いて言った。
「…う、うん。爆弾のことでしょ?テレビで見たことある。」
「そうだ。今から140年ほど前に、アルフレッド・ノーベルという科学者が
ニトログリセリンという薬品を元にして発明した爆弾だ。
もともとニトログリセリンは力の強い爆薬だったが、きわめて爆発しやすい
ために何度も事故が起こり、数え切れない人がそれで死んだ。ノーベルの弟も
ニトロの事故で死んだのだ。」
ちょっと言葉を切った男は、少年の目を窺った。
話の重さに怯えてはいたが、それ以上の好奇心を湛えた目だった。
姿勢を変えて再び座り直した男は、話を続けた。
「それでもノーベルは諦めなかった。弟の死を乗り越え、研究を重ねた末に
遂にニトロを安全に爆発させる技術を発明したのだ。一つの科学の真実が彼に
よって生み出され、世界はダイナマイトによって大きく変わった。」
男は、目を輝かせる少年の目をしばし見つめた後、不意に問いかけた。
「ダイナマイトとはどんな物だと思う?」
急に問いかけられた少年は面食らいつつ、さして間もおかずに答えた。
「わるものがつかう武器でしょ?」
「そうだ。」
そう答えた男の声には意味ありげな笑いがこもっていた。
「たぶん、誰に訊いてもそんな答えが返ってくるだろう。それがダイナマイト
の持つイメージそのものだからな。実に理想的な答えだ。」
再び視線を泳がせた男は、嘲るかの様に言葉をつないだ。
「だが、ノーベルはそんなことは夢にも思ってなかった。140年後の世界に
生きる子供が、自分の発明したダイナマイトを殺戮の武器と捉えている、など
という事もな。彼はひたすらに平和利用の為にダイナマイトの研究に全ての
情熱を捧げた。それ故、それが武器として使われる事に誰よりも悩み、苦しみ
続けたのだ。そして、自分の私財を投じて基金を作った。科学の発展と人類の
平和のため、大きな発見や貢献をした人に賞を与える…、とな。」
少年の心に、冷たいものが走った。
男の言っている事は難しく、何となくしか意味は分からない。しかし、その中
には重いものが込められている気がした。
「じゃあ…。ダイナマイトはいいものなの?悪いものなの?どっちなの?」
「どっちでもないさ。」
間をおかずに答えた男は、何気ない口調で語りかけた。
「ダイナマイトはノーベルが作り上げた科学の結晶だ。それ自体は単純な物だ。
良いも、悪いもない。ただ、非常に大きな力を持っている。それだけだ。
さらに言うなら、ニトログリセリンだってそうだ。ノーベルがダイナマイトを
作るまではニトロは悪魔のような薬品と恐れられた。まあ、それだけ危険な
物である事は間違いない。
だが、ニトロは悪魔ではない。ただの化学物質だ。それを扱い損ねた人間が、
勝手に事故を起こしただけのことだ。いいか悪いかなど、考えるだけ無駄だ。
それはわかるか?」
皮肉めいた問いに曖昧に頷いた少年を見据え、男はなおも語る。
「それに、知っているか?ニトロは薬にもなる。狭心症という危険な病気には
有効な薬なのだ。これを飲む事で助かっている人も大勢いる。どうだ、ますます
良いか悪いかなんてわからなくなるだろう?科学が生み出す物なんてのは所詮
そういう曖昧な物ばかりなのさ。」
「だけど。」
絞り出すような声で、少年は言った。
「みんなが正しいつかい方をすれば、科学の力はいいものになるんじゃないの?」
しばしの沈黙の後、男はゆっくり答えた。
「そうだな。みんなの考えが同じならな。だが。」
男は少し視線を逸らして声の調子を落とした。
「言っておくが、自分が間違った使い方をしていると考える人間はほとんど
いない。みんな、自分なりに正しいと考えて科学を使う。それが例え、誰かを
傷つける結果になるとしてもな。
どんな物にも、どんな力にも使う人の数だけ使い方がある。そしてそれこそが
科学の発展、そして人間の歴史を作ってきたのだ。数え切れないほどの喜びや
悲しみ、そして犠牲を重ねてな。それはこれからも続いていく。今日を生きて
いる人、そしてこれから生まれてくる人の手でな。」
黙然と耳を傾けていた少年は、最後の言葉で我に返ったように立ち上がった。
「そうだ、そうなんだよね。だから、僕は行かなくちゃ。こんなところで
じっとしてる場合じゃないんだ。はやく行かないと!」
「落ち着け。じたばたしてもしょうがない。とりあえず今は座っとけ。」
そう言って少年を座らせた男は、幾分柔らかな口調で問いただした。
「そういえば、何をそんなに急いでる?何か大事な用事でもあるのか。」
「うん。」
顔を近づけた少年は、耳打ちするように男に話し出す。
外の物音が、少し大きく、そして気ぜわしくなったように聞こえた。
「なるほどな。それは急ぎたいのももっともだ。ハハハハハ。」
再び壁にもたれた男は、愉快そうな笑い声を立てた。
その声に、少年の顔にも少し笑いが浮かぶ。
「まあ、心配するな。といっても、心配しても始まらんが。どのみちずっと
ここにいる訳じゃないだろうしな。」
相変わらずの陰鬱な赤い闇の中。
しかし、さっきまでの救いのない冷たさと暗さはもうなかった。
少年は、奇妙な安堵の中にいた。
「それで、おじさんは。」
しばしの沈黙の後。
少年は静かに語りかけた。
「苦しんだノーベルさんのことをどう思ってるの?」
意外な問いにまた視線を泳がせた男は、皮肉っぽく答えた。
「私から言わせると、ただの馬鹿だ。」
皮肉っぽくはあったが、真剣な口調だった。
「ダイナマイトはノーベルによって生み出された。しかし、世に広まった
何百万、何千万という数のダイナマイト全ての責任を自分が負うなどと考える
のは、ナンセンスだ。それはノーベルに限った事ではない。ロケットを作った
フォン・ブラウン、相対性理論を発見したアインシュタイン、みな同じだ。」
頭上の赤い光を見つめた男の言葉は、明らかに自分に向けられていた。
「みな自分の作り上げた科学の結晶故に十字架を背負った。そして、この私も。
作った時は世の中に悪魔と罵られるかも知れない。後悔するかも知れない。
だが、科学における発見はそんなちっぽけなものでは計れない。ノーベルは
100年も前にこの世を去った。しかし彼の発明は世界を変え、今なお脈々と
受け継がれている。科学の真の価値など、生み出した者が生きてる間に分かる
ものではない。いや、あるいは永遠に分からないのかも知れん。だから私は、
自分が正義なのか悪なのかにはこだわらんよ。」
「…よくはわかんないけど。だけど…。」
膝を抱えた手を強く握りしめた少年は、伏し目がちに言った。
「僕は、ノーベルさんはえらいとおもうよ。」
そう言って顔を上げた少年の目が、男の目とまともにぶつかった。
視線を逸らすことなく、少年は力強い言葉をつなぐ。
「僕は、正しいこと、いいことに力を使いたい。それがどんなことなのかは
ぜんぜんわからないし、おじさんの言うとおりならきっとすごく苦しむと思う。
だけど、僕は何年もあとの世界じゃなくて、じぶんの中でじぶんの答えを
見つけてみたい。そう思うんだ。」
何度目かの沈黙が流れた。
やがて、男がフッと笑みを浮かべた。
「そうだな。それも一つの生き方だ。苦しくて、そしてまっすぐな生き方だ。」
その口調には、優しさと厳しさが込められているようだった。
「君はまだ子供だ。だが、なかなか骨のある子供だ。その気持ちを忘れずに
いれば、やがてはそれなりの人物になるだろう。
その時、私がやっていることに君なりの悪が見えたとしたら、遠慮なく私を
止めに来い。私も、全力でお相手しよう。どんな形であれ、な。」
闇の中。
それ以上の言葉はなかった。
奇妙な共有感があった。年齢を超え、思想をも超えた感情。
笑みを浮かべた2人が軽く頷いたのはほぼ同時だった。
そして、一瞬ののち。
出し抜けに体が浮き上がるような感覚が起こった。
数秒後、軽い音と共に停止する。
開かれた扉からあふれ込んだ光に、思わず2人は目を細めた。
「ミツ夫!大丈夫だったか!?」
響いてきた声めがけ、少年は飛び出した。
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「大丈夫ですか!?お怪我は!?」
エレベーターの入口で、デパートの従業員とレスキュー隊員が異口同音に声を
かける。
父の胸に飛び込んだミツ夫は、笑顔で答えた。
「あったりまえだよ。ぜんぜん平気!それより、早く行こうよパパ!!」
袖を引っ張るミツ夫の元気さに、父の方がかえって戸惑っていた。
遠慮がちにレスキュー隊員に訊ねる。
「あ、あの…。息子はこの通り、いたって元気そうなんで、行ってもよろしい
ですか?」
ちょっとミツ夫に目を向けたレスキュー隊員は、明るい声で言った。
「ええ。お怪我がないようでしたらね。お急ぎなんでしょう?どうぞ。」
その言葉を聞いたミツ夫の父は、ようやく笑顔を見せた。
深々と頭を下げるデパート従業員を一瞥すると、そのまま袖を引っ張られて
あたふたと去っていく。
「ずい分元気な子だねえ。ずっと閉じ込められてたとは思えん。タフなもんだ…。」
呆れたように呟く隊員の背後から、男がゆっくりと出てきた。
と、その足に何かが当たって軽い音を立てる。
視線を落とした男は、背を曲げてそれを拾い上げた。
多分、あの少年が落としていった物なのだろう。安物のロボットの玩具だった。
音に気付いた隊員が慌てて向き直り、声をかけた。
「あ、失礼致しました!お怪我ありませんか?」
うろたえた顔の従業員たちも、同じようなことをゴチャゴチャ問い掛けてくる。
「心配いらんよ。」
うるさそうに目を向けた男は、吐き捨てるようにそう言って大股で歩き出した。
頭を下げる従業員たちには目もくれなかった。
その姿は、たちまち非常階段の向こうに見えなくなった。
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「須羽さあん。こっちですよ。遅かったんですね。」
ちょっと太った顔なじみの看護婦が、よく通る声でミツ夫と父に声をかけた。
「ええ…。ちょっと、トラブルに…巻き込まれまして…。」
走ってきたせいでミツ夫の父は息も絶え絶えといった体たらくだった。
それでも、すがりつくように看護婦の手を取ると問う。
「そ、それで…あの…」
後の言葉が出てこない彼に、看護婦は笑顔を返した。
「おめでとうございます。奥さんも、お子さんも元気ですよ。女の子です。」
父が何か言う前に、ミツ夫が歓声を上げた。
「やったぁ!!妹だ!妹ができたんだ!!ばんざあぁい!!」
はしゃぐ我が子の横で、父もまた涙を浮かべて看護婦の手を握る己の手に力を
込める。
「あ、ありがとう…ほんとにありがとう…」
もらい泣きしそうになっていた看護婦は、その言葉に吹きだした。
「須羽さん!その言葉は私じゃなくて、奥さんに、ね!ほら早く。お待ちかね
ですよ!」
午後の日差しが柔らかく差し込む病室。
父と先を争うように入ってきたミツ夫の目に、シーツの白が沁みた。
窓際のベッドに、見慣れたはずの母の姿があった。
でも、何だか違う。
(あ、そうか。おなかがちっちゃくなってるんだ…)
そこまで考えた時、初めてベッドの傍らの小さなバスケットに気付いた。
あそこに、妹がいる。
本能だろうか。さっきまで散々騒いでいたミツ夫は、嘘のように音を立てまい
としていた。そのまま、抜き足差し足でバスケットに近付き、そっと覗き込む。
(うわっ、ちっちゃいなあ…。それに、顔がサルみたいだ…。)
何だか、思ってたのと違う。
全然違う。
だけど、ガッカリはしない。可愛いという気持ちしか浮かんでこない。
僕の、妹だ。ずっと欲しかった、兄弟だ。
ミツ夫は、恐る恐る指を伸ばしてその頬を軽くつついてみた。
驚くほど柔らかい。
あわてて引っ込めた肘が、いつの間にか後ろに来ていた父の腕に軽く当たった。
「どうだミツ夫。おまえの妹だぞ。これでおまえも、一人前のお兄ちゃんだ。」
なぜか顔を赤くしたミツ夫に、父は笑顔を返した。
「さ、赤ちゃんに渡すものがあったんだろう?」
そう言われたミツ夫は、初めて我に返った。
(あれっ?そういえば、あれは…どこやったっけ…)
慌ててあちこちまさぐるが、もともとポケットなんかほとんどないし、入れた
覚えも入るはずもない。
ミツ夫は、申し訳なさそうな表情を浮かべて父の顔を見返した。
「ごめんなさいパパ。どっかで落としちゃったみたい…。」
「おやおや。相変わらずだな、ミツ夫は…。せっかくわざわざ買いに行ったの
にな。」
おかしそうに答えた父の声は、全く怒っていなかった。
「まあ、あんな大変なことがあったんだ。無理もないよ。また今度、改めて
買いに行こうな。」
気にしていないといった口調はミツ夫にも伝わった。彼も笑顔を返す。
当然だ。家族が増えた喜びに比べれば、オモチャ一つ無くしたくらいほんの
ささいな事だ。
「あんな大変なことって?あなた、そういえばずい分遅かったけど途中で何か
あったの?」
「いやいや、それがね。どうしても赤ちゃんへのプレゼントを買うんだって、
ミツ夫にせがまれてデパートに行ったんだけど、エレベーターが故障して……」
あれこれ顛末を話す父と心配げに聞き入る母に背を向け、ミツ夫は赤ちゃんに
再び向き直った。
手をかすかに動かしたのが分かった。
その瞬間。暗闇の中で、あの「天才科学者」が言った言葉が浮かんできた。
『数え切れないほどの喜びや悲しみ、そして犠牲…。それはこれからも続いて
いく。今日を生きている人、そしてこれから生まれてくる人の手でな。』
(そうだ。)
ミツ夫は、訳もなく心が熱くなるのを感じていた。
(たしかにあの人のいうとおりだ…。僕が、この妹が、もしかしたらいつか
だれかほかの人を傷つけたり、かなしい思いをさせたりするのかもしれない。
だけど、それでもいい。何があっても、僕は妹を守る。そして、自分が正しい
と思えるならひとのためにがんばる。答えなんかなくても。)
それは、ひとつの固い誓いだった。
新たに生まれた小さな命の前で立てられた、彼なりの人生を懸けた誓い。
彼自身に、そんな自覚はなかったかもしれない。
だが、その顔にはまぎれもない決意があった。
いつの間にか両親は、ミツ夫の顔をうかがっていた。
「何だかずい分大人っぽい顔になってるわね。いつの間にあんな顔するように
なってたのかしら。」
「そりゃそうさ。何たって、お兄ちゃん!だからな。」
ふと、ミツ夫がこちらを向き直った。
両親の笑顔に気付き、自分もちょっと照れながら笑顔を返す。
手を広げた両親のもとに、ミツ夫は幼子の顔に戻って飛び込んでいった。
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夕暮れの光に満ちた、洋間の作業机で。
魔土災炎は、手の中のオモチャに視線を投げかけていた。
粗悪な作りだった。デザインも支離滅裂。彼にしてみれば、まさに駄玩具と
呼ぶに相応しかった。
今日。彼は召使い用ロボットのデザインの参考にするため、デパートの人形
売り場へ足を向けていた。
人間そっくりの容姿を持つ、召使い用ロボット。何でも言う事を聞き、忠実な
僕となる。余計なことは言わず、黙々と使命をこなす。
彼の、そして人類の理想とするロボットの究極形だった。
机の上には、ロボットの設計図があった。精巧な人型ロボット。すでに内部
フレームや電子頭脳の設計は完成している。あとは外観だけだった。
そのはずだった。今日の昼までは。
「生意気な小僧だったな。この私に意見するとは。」
そう言った魔土災炎の口調は、言葉とは裏腹に嬉しげだった。
年端も行かない子供相手に、むきになって意見した自分。
何だか信じられなかったが、正直、悪い気はしなかった。
これまで自分は、馬鹿にされるか恐れられるか、どっちかだった。
くだらない蹉跌の連続。
気付けば、「狂気の」とか「悪の」とかいったレッテル付きの科学者になって
いた。
別にかまわないと思った。人がなんと言おうと、自分は自分だ、とも思った。
しかし、自分が何のために必死に科学を究めようとしているのか、その答えが
置き去りになっている事に気付いていないわけではなかった。
その答えは、今日、暗闇の中で見つけた。少年の問いに答えた、自分自身の
言葉の中に。
答えは単純だった。そして、単純であるが故に誰かに問われなければ言葉と
して出てはこなかった。
扉が開いた瞬間、赤い闇に光が満ちた瞬間。
自分が新たな「誕生」を感じたことを認めないわけにはいかなかった。
もう、あの少年に会う事はないのかもしれない。
だが、もし成長した彼が自分を見たら、きっと悪だと言うだろう。
後ろめたくはない。むしろ、望むところだ。その時こそ、自分の信じた道を
ぶつける事が出来る。
科学への探究心。そして、情熱。
それを忘れた時が、自分が自分でなくなる時。そしてあの少年に敗北する時だ。
決してそれを忘れないように。
己に厳しくあるために。
なんでもハイハイ言う事を聞くだけのお人形などに用はない。
必要なのはパートナーだ。時には自分に生意気に意見するような、そんな心を
持ったパートナーロボット。
再び手の中のオモチャに目をやった魔土は、苦笑いを浮かべた。
「さあて、また一から設計し直しだな。やれやれ。こりゃ大変だぞ。歩かせる
だけでも苦労しそうだ。」
明るい声で言った彼の手が、荒っぽく机の上の設計図を脇へ押しやる。
何枚かが床に落ちた。しかし彼は全く頓着することなく、新たな紙を広げると
鉛筆を持った。
部屋には赤い光が満ちつつあった。
暖かな夕日。それが、一心にスケッチに励む魔土の顔に濃い影を落としていた。
================【完】=================
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