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秋も深まった日の午後。
強い風の吹く高台に位置する小さな墓地。
忘れられたような寂しさを湛えながら風にさらされるこの墓地に、一人の老人が
たたずんでいた。
目の前には、まわりの物と比べても明らかに小さな墓碑。頼りなげなその姿は、
風に震えているようにも見える。
正面に刻まれた、おそらくは女性と思われる墓碑銘を見つめていた老人はやがて
視線をゆっくりと落とした。
じっと凝視するその手の中には、小さな金色のロケットが収まっている。数cm
にも満たないそのフレームの中に、笑顔を浮かべる少年の褪せた写真があった。
どれくらい経っただろうか。
老人はロケットをそっと懐にしまい込むと、再び墓碑を見据えて低く呟いた。
「さようなら。大切な思い出をありがとう。もう、ここへは来ない。しかし、
一生忘れない。」
最後に口にした女性の名は、一際強まった風にあおられた木々のざわめきに
掻き消された。
ゆっくりと踵を返した老人は、しっかりとした足取りで石段の方へと歩を進めた。
墓地に、再び静寂が訪れた。
いっそう激しさを増した秋の風に、掻き消されてしまいそうな光景だった。
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久し振りに休みが取れた日曜日。
スミレは朝早くから鏡の前で悪戦苦闘していた。
ここしばらく、彼女は自分の素性を隠すメイクを習得しようと、空いた時間を
使ってあれこれと試行錯誤を重ねていた。
専属メイクさんに頼めばその手のカモフラージュメイクは色々施してくれるし、
以前に手に入れた千面相の変装セットもクローゼットのどこかにしまってある。
しかしスミレは、何とかして自分自身の力で変装をしてみたかった。
誰にもわからない変装を。
いちいちメイクさんの手を煩わせたくないし、説明が面倒だという理由もある。
しかし、変装術を習得したいという思いはもっと違うところから来ている気が
する。自分でも何が気持ちの原点なのかはわからないけど。
あれやこれやと付け焼き刃のテクニックを試しているうちに、どうにか
それらしいメイクが出来上がった。
かわいいかどうかは別として、「星野スミレ」の印象はかなり消えているはずだ。
野暮ったいメガネをかけ、更に頭にはウィッグを着ける。
コートを着、念のためにマフラーも巻いた。立ち上がったスミレは、鏡の前に
立ってまじまじと自分の姿を凝視する。
何だかちょっと怪しい感じもするが、とりあえずこんなもんだろう。
「初めてにしては、まあまあ上出来よね。」
誰にともなく、小さく呟く。人の多いところに行ったら危ないと思うが、近場
を散歩するくらいなら人の目もだましおおせるはずだ。
何となく楽しくなったスミレは、小さなハンドバッグを持つと晴れた空の下へ
足取りも軽く飛び出していった。
勇んで外出したものの、やはり人気の多いところへは足が向かない。とりあえず
スミレは、マンションに程近い大きな公園へと向かった。
日曜だというのに、人は少なかった。時間帯の関係だろうか。何にせよ都合が
いい。スミレは、砂場の近くのベンチにゆっくりと腰を下ろした。
何人かの子供がカードゲームに興じている。向かい側のベンチには暇そうな
女性数人が何かを皆で食べながらおしゃべりに熱中しているのが見えた。
特に自分に興味を向けている人はいない。
「大丈夫みたいね。」
安堵したスミレは、ハンドバッグからカバーのついた文庫本を取り出した。
公園で一人、読書に耽る。
何年も遠ざかっていた、(自分にとっては)贅沢なひとときだ。
しおりを指でつまんで本を開こうとした、その時。
甲高い呼び出し音が小さく、しかし鋭く鳴り響いた。
不意をつかれたスミレは飛び上がった。慌ててコートのポケットをまさぐる。
バッジがない。急き立てるような呼び出し音に、焦りが募る。
「ど、どこにしまったっけ。」
パニック状態のスミレは体のあちこちを両手ではたき、全てのポケットの感触
を確認する。どこにも、バッジの感触は感じられなかった。
「あれ、タダシくん。何なのその音…。」
砂場の脇でゲームに興じていた少年の一人が、傍らにいる大柄な少年に言った。
問い掛けられたその少年は、ズボンのポケットから小さなアラームを取り出し、
慣れない手つきでスイッチを押す。
音は、ぴたりと止まった。
「あ、やっぱり忘れてた。今日はおじさんのところへ行くから、時間になったら
戻って来いってママに言われてたんだった…。」
少年は、自分の分と思しきカードを手早く選り分けてケースに入れると、立ち
上がってズボンについた砂を払う。
「じゃ、ぼく先に帰るね。また明日。」
「うん、また明日ね。」
「バイバイ。」
短いやりとりの後、少年は手を振って駆け出した。後に残った数人の友達は、
何事もなかったように再びカードに視線を戻す。
元気に走っていくその後ろ姿を、スミレは呆然と見送っていた。
ハンドバッグに突っ込み、内ポケットを掻き回していた両手をそっと引き抜く。
思わず周囲を見回した。誰かに見られて、笑われてやしないだろうか。
さいわい、慌てふためいた自分に注意を向けている人は誰もいなかった。
きまり悪げな表情を浮かべたスミレは、小さく咳払いをすると再び文庫本に
目を落とす。
しかし、その視線は文章を追ってはいなかった。
一人で大慌てした事への恥ずかしさは、やがて彼女を忘れていた思いへと否応
なく引き込んでいった。
バッジが鳴る事はもう、ない。
パーマンセットをバードマンに返して、すでに8ヶ月以上が経っていた。
バッジが鳴らない事にも、パー子としての自分がいなくなった事にも、完全に
慣れたつもりでいた。
しかし、そんな偽った気持ちを暴くには今の出来事は充分過ぎた。
自分はまだ、パーマンとしての習慣と気持ちを引きずったままでいる。
同時に、自分がなぜ変装技術にこだわっていたのかも理解できた。
パーマンマスクを被らなくなったことで、自分の中の本当の素顔、お転婆な
パー子がいなくなった。
正確に言うと、いなくなったのではなく、姿をあらわす機会がなくなった。
ブービーやパーやん、コピー相手になら遠慮なくさらけ出せた「素顔」が、
完全に居場所を失った。
自分は、仮面を脱いだことで失った素顔を、もう一度「他人」になる事で
取り戻したかったのだ。
(だけど、だれを相手に素顔になれって言うの?)
スミレは改めて自問した。
たとえ完璧な変装ができたとしても。
自分のお転婆な素顔を受け止めてくれる人は誰もいない。
ミツ夫も、コピーも、ブービーも、パーやんも、バードマンも。
別に、寂しいわけではなかった。
自分なりに考えて出した結論だ。いまさらパーマンに戻ろうとは思わない。
残った2人もそのことは理解してくれた。
しかし、時が経つにつれて自分の中に一つの新たな不安が生まれた。
自分の、そしてミツ夫の素顔が薄れてきたという不安だ。
パー子としての自分が影をひそめた事への漠然とした不安。
そして、自分とミツ夫をつないでいる「物」が何もないという事への不安。
見送ったあの日、交換した1号の真紅のバッジ。
寂しさに押しつぶされそうな日には、それを手で包むことで気持ちを強く
保つことができた。
そこには確かにミツ夫のパーマンとしての心があった。
しかし、パーマンを引退した日、バッジはバードマンに返却せざるを
得なかった。
ただでさえ、いろいろと無理を聞いてもらっている身だ。
これ以上のわがままを言うわけにはいかなかった。
それからの日々は、不安との直面を強いられる毎日となった。
一緒にいた頃はつまらない意地ばかり張っていた。
今にして思えば、どうして写真の一枚でももらっておかなかったのか、と
後悔ばかりが募る。
むろん、写真がないわけではなかった。しかしそれらはいずれもパーマンと
して撮った記念写真ばかりで、マスクを取ったミツ夫の写真は一枚もない。
このまま自分の素顔を、そしてミツ夫の顔を忘れてしまったら。
思い出すためにコピーのもとを訪れる自分の姿なんて、考えるだけで悲しい。
第一、パー子でなくなった自分がコピーのもとへ行けるはずもない。
自分の胸の奥の記憶だけで、ミツ夫への想いを保てるのだろうか。
いつしか、スミレはうつむいたまま涙ぐんでいた。
度の入っていないメガネのレンズに数滴の涙が落ちたのを見たスミレは慌てた。
今涙なんか流したら、急作りのメイクが台無しになる。
メガネをそっと外して涙を袖で拭くと、目のまわりのメイクも少し整えた。
改めてメガネをかけ、座り直そうと姿勢を変えたスミレはふと横に目を向けた。
そして、そのまま凍りついた。
自分の座っているベンチの、しかもすぐ隣に一人の老人が座っている。
声も出ないほど驚いたスミレは、動悸を懸命に抑えようとした。
考え事をしていたとはいえ、こんなすぐそばに人が腰を下ろしたことに
気付かなかったというのは異様だった。
落ち着く間もなく、恐怖に似た警戒心が頭をもたげた。
なぜ、自分のすぐ横にわざわざ座ったのだろうか。ひょっとして、スミレと
しての素性がばれたのだろうか。
動揺を押し殺し、本とバッグを小脇に抱えたスミレは立ち上がろうとした。
その時、黙りこくっていた老人が低く呟いた。
聞こえるか聞こえないかの小さな声。しかしあまりにも想像を超えたその
内容に、スミレは金縛りにあったように動けなくなった。
「そんなに慌てることはない。落ち着いて座りたまえ、パーマン3号。」
耳を疑った。
しかし、確かにこの老人は自分を「パーマン3号」と呼んだ。
自分の正体を知る見知らぬ人物が、目の前にいる。
あまりにも唐突で重すぎる事態に、スミレは中途半端に腰を浮かしたままで
相手の顔をまじまじと眺めた。
その視線に気付いたのか、老人はかすかに首を回すと初めてまっすぐスミレを
見た。そのまま、言葉をつなぐ。
「大丈夫だ。何もせんから、座りなさい。パーマン3号、星野スミレ君。」
その言葉を聞いた途端、スミレの動悸はおさまった。嘘のように落ち着いた。
いや、「腹が据わった」、といった方が正確だった。
この老人は何もかも看破している。
自分がかつてパーマン3号だったことも、星野スミレであることも。
だったら、今さらじたばたしても始まらない。
不思議と、その穏やかな口調に恐怖心も薄れた。
ある意味覚悟を決めたスミレは再びゆっくりと腰を下ろした。
今度は彼女の方から、静かに問う。
「あなた、誰なんですか?」
全てを内包した、簡潔な問いだった。それ以外に問う言葉はない。
老人は、しばしスミレの目を黙って見つめ返していた。
やがて、その顔にかすかな笑みが浮かんだ。
「つれない言葉だね。」
老人の口を突いて出た言葉は、明らかに先ほどとは調子が違っていた。
「忘れたかね、吾が輩のことを。」
そう言った言葉には聞き覚えがあった。しかし、思い出す間はなかった。
意外に俊敏な手つきで顎に手をやった老人は、そのまま自分の「顔」を
一気に上へとめくり上げた。
中から出てきたのは、忘れ得ぬ顔だった。
太い眉。強靭な意志を湛えた目。そして独特の威厳を含んだ口髭。
かつて、幾度となく対決した最強のライバル。
怪盗千面相の不敵な顔が、スミレの前にあらわになった。
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「久し振りだね。」
千面相は座り方を変え、足を組むとリラックスした様子で言った。
「ええ。ホントにお久し振り。」
スミレもまた、落ち着いた口調で応えた。
怪盗千面相。
幾多の美術品を盗み出し、「謎の怪盗紳士」の名を欲しいままにした大泥棒。
千の顔を持つと言われ、その巧みな変装術で幾度となく警察や自分たちパーマンを
煙に巻いてきた男だ。
正直、老人の正体が彼だとは想像もつかなかった。
しかし、不思議と驚きは少なかった。何だかすんなりと納得できる事実だった。
彼が、自分の正体を知っているというのも自然な事に思えた。
「知ってたの?あたしの事…。」
淡々とスミレは訊いた。相変わらず落ち着いた口調だった。
「マスクの中の正体のことかい?もちろん。もうずっと前にね。」
のんびりとした口調で千面相は続けた。
「吾が輩は千の顔を持つ男だ。相手が2つや3つの仮面をつけたところで、
その中にある顔を見破るなどたやすい事なのだよ。君にしても、あるいは
須羽ミツ夫君にしても、ね。」
もはや、驚きはなかった。自分の正体さえあっさりと見破っていた千面相だ。
ミツ夫の正体を見破るなど、朝飯前の事だったに違いない。
何となくおかしさがこみ上げたスミレは、小さく笑った。その顔を見て、
千面相もかすかな笑みを浮かべる。
しばし千面相に笑顔を見せていたスミレの顔は、やがてキッと引き締まった。
馴れ合うのは、ここまでだ。
留守を守る者として、須羽家の人々やミツ夫のコピーに累が及ぶのは絶対に
防がなければならない。
たとえ、自分がどんな目に合わされるとしても。
毅然とした声で、スミレは改めて千面相に問いただした。
「それで、一体何が目的なの?」
スミレの言葉を聞いた千面相の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。
そのまま正面に向き直った千面相は、空を見上げると言葉を探すように視線を
泳がせた。やがてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「何が目的、か…。寂しい言葉だな。ひょっとして君は、吾が輩が脅迫の為に
ここへ来たと思っているのかね?」
「今になってあたしの前に姿を現して正体を暴いたって事は、そう考えたって
不思議じゃないでしょ。だからはっきり言って。目的は何?」
間髪をいれずにスミレが言葉を返す。
緊迫した空気が流れた。
しばしの沈黙の後。いくぶん和らいだ声で千面相が言った。
「君の正体ね。正直言って、かなり前から知っていた。そして、さらに正直に
言うなら、最初からどうでもいいことだった。むろん、ミツ夫君にしてもね。」
意外な言葉に毒気を抜かれ、キョトンとしたスミレに千面相は言葉を続ける。
「はっきり言って、正体なんてのはあってないようなものだ。吾が輩は千の顔を
持っているが、どれが正体なのか、などということは初めから考えていない。
言うなればそのどれもが正体であり、素顔でもあるのだよ。
そしてそれは、君にしても同じことだ。マスクを被り、世のため人のため活躍
していた君。華やかな芸能界に身をおく君。そして今、下手な変装に身を包んで
公園のベンチでくつろぐ君。どれも君の正体であり、素顔なのだよ。」
言われたスミレは、ばつの悪さから思わず顔を伏せた。もともとそんなに上出来
とは思っていなかったが、この男にずばり「下手」と言われると返す言葉も
ない。かすかに顔が赤くなるのが感じられた。
そんなスミレに目を向け、かすかに笑みを浮かべて千面相は言った。
「そんな様々な顔をすべて合わせた上で、私は君達パーマンを好敵手として
認めている。いまさら君がマスクを取ったところで、吾が輩には君がパーマン
であることに何の変わりもないのだよ。」
スミレは、安堵を感じる自分が不思議だった。
千面相の言葉は、真実として驚くほどほどあっさり自分の心に受け容れられた。
根拠なんて何にもないのに、なぜ?
答えはすぐに見つかった。
彼が言ったことは、今の自分が最も欲していた言葉だったからだ。
マスクを被ったパー子だけが、自分の素顔なんじゃない。
星野スミレとしての自分も、ミツ夫を想う自分も、間違いない素顔だ。
全ての顔を素顔として受け容れることで、初めて自分自身を受け容れることが
できるようになる。
千の顔を完璧に使い分ける千面相が言うからこそ、真実として認められる言葉
だった。
視線を外したスミレは、小さく息をつくと千面相に言った。
「変なこと勘ぐっちゃって、ごめんなさい。今は信じるわ。あなたの言葉を。」
張り詰めていた空気が、フッと緩むのが感じられた。
改めて深く座り直した千面相は、穏やかな声で静かに言った。
「すこし、話を聞いてくれるかね?」
スミレは、前を向いたまま黙ってうなずいた。
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「ここへ来る前、須羽ミツ夫君の家を見てきた。以前と変わらない彼がいた。
しかし、一目見てわかった。あれは本物ではないと。」
視線を泳がせながら、千面相は続けた。
「きっと何らかの形で用意された身代わりだ。そしておそらく本物のミツ夫君、
つまりパーマン1号はどこか遠くへ行っていると見受けた。」
スミレは曖昧にうなずいた。あまりはっきりと答えるわけにはいかない。
しかし、千面相はスミレに答えを期待しているような素振りは見せなかった。
すでに何らかの確信をもっているのだろう。それ以上、ミツ夫の事については
深く語ろうとしなかった。
「吾が輩は、まだ幼かった頃に両親を亡くした。」
思いもかけない告白に、スミレは思わず居住まいを正した。おそらくは、
初めて他人に語るであろう千面相の過去だ。
「ほんの2歳くらいだった。独りぼっちになった吾が輩を育ててくれたのは、
母の親友だったある女性だ。
彼女も孤独な人だった。誰かにかけるための愛情を全て吾が輩に注いで育てて
くれた。吾が輩も、当たり前のように彼女を母として慕っていた。この先も、
ずっとこの人を唯一の肉親として愛し続けていくことを疑わなかった。」
言葉を切った千面相は、頭上を横切って彼方へ飛び去っていく鳥の姿をじっと
遠い目で追った。
やがてゆっくりと言葉をつなぐ。
「しかし、別れは唐突にやってきた。事情はわからなかったが、彼女は吾が輩
が12歳の時に姿を消した。
今度こそ天涯孤独になった吾が輩は、その時に誓ったのだ。自分のもとから
全ての過去がこぼれ落ちてしまうのであれば、もう過去など欲しないと。そして
自分は、誰の心にも留まらない幻になってやると。
そして、それまで生きてきた証を全て捨て、写真のたぐいを全て灰にし、更に
自分の顔を捨てた。その時に吾が輩は、千面相としての新たな生を受けたのだ。」
スミレは黙って千面相の顔を見た。
怪盗としての変幻自在の暗躍。自分たちとの勝負を楽しんですらいるような
酔狂な行動。
つかみ所のないこの男にも、当たり前のように悲しい過去があったのだ。
何だか、千面相の肩が小さく感じられた。
「しかし、怪盗としての人生は想像以上に乾いた道だった。」
スミレの視線に気付かないのか、千面相はまるで独り言のような口調で続けた。
「気のおける仲間も、甘える相手も、叱ってくれる存在もない。世の中がいくら
吾が輩の存在を取り上げようと、吾が輩は常に一人ぼっちだった。そして、
乾き切っていた。そう、須羽ミツ夫君と会うまでは。」
「ミツ夫さんに?」
思わずスミレは言葉を差し挟んだ。意外なところでミツ夫の名が出たからだ。
まるで今スミレの存在に気付いたかのように目を向けた千面相は、目を閉じて
かすかに頷いた。
「子供ながらに吾が輩に真っ向から向かってくるあの少年が、妙に心に残った。
彼とパーマン1号が同一人物だということはすぐにわかったが、彼がパーマン
だという事にかかわらず、吾が輩はなぜかあの少年が相手だとムキになった。
そして、勝負を心から楽しんでいる自分を感じていた。」
ちょっと言葉を切った千面相は、スミレに笑顔を向けた。
「そして、彼を心から信頼して同じように立ち向かってくる君達パーマンとの
勝負は吾が輩の生きがいとなった。
時に自分を負かしてくれる相手、好敵手を得たことで吾が輩の人生は初めて
潤いを得た気がした。全て、君達のおかげだったのだよ。」
そう言われ、スミレは何だか誉められたような妙な気分になった。
自分たちはただ、しつこく脱獄と泥棒を繰り返す困り者を追いまわしている
だけのつもりだったのに。
そこまで語った千面相は、ふと表情を曇らせた。何だか、寂しげな顔だった。
「しかし何年か前、パーマン1号は姿を見せなくなった。詳しい事情は吾が輩
の知るところではないが、もう日本にはいない、という事は感じ取れた。
そして、君までもがいなくなった。好敵手を失った吾が輩は、遠い昔に忘れて
いた喪失感を再び味わう羽目になったのだよ。」
「それで、あたしのところに来たの?」
遠慮がちにスミレは訊ねたが、千面相はゆっくりと首を横に振った。
「喪失感を覚えて初めて、吾が輩は自分の中の疑問と向き合った。なぜ自分は、
あれほどまでに須羽ミツ夫君にこだわったのだろう、と。
そして吾が輩は、忘れていた過去を探す旅に出た。自分の原点を手繰る旅にね。」
言葉を切った千面相は、懐を探ると小さなペンダントのような物を取り出した。
手の平からこぼれた鎖が日の光を反射してかすかに光っている。
「そして、見つけ出した答えがこれだった。」
差し出されたそれをスミレは両手で受け取った。小さなロケットだった。
手の中で表返したスミレは、息を呑んだ。
そこには、ミツ夫と同じ顔をした少年の褪せた顔写真があった。
前髪のハネが無いために別人であることはすぐにわかるが、それがなければ
区別が付かないかもしれない。それくらい、よく似ていた。
まじまじと覗き込んだスミレは、そのままの姿勢で千面相に訊ねた。
「誰なの?この子。見れば見るほどミツ夫さんにそっくりだけど…」
スミレのリアクションを愉快そうに見ていた千面相はゆっくりと答えた。
「子供の頃の、吾が輩だよ。」
スミレは、思わず千面相を向き直って穴が開くほどその顔を見つめた。
無遠慮なその視線に苦笑しながら、千面相が言葉をつなぐ。
「いや、自分でもすっかり忘れていたんだが、それは紛れもなく子供の頃の
吾が輩の写真なんだよ。君にはちょっとショックかもしれないがね。」
含みのある言葉に我に返ったスミレは慌てて視線を外した。
「それで全てわかった。」
また視線を空に向け、千面相はゆっくりと言葉を紡いだ。
「自分が須羽ミツ夫君に固執した理由がね。吾が輩は、自分でも全く意識
しないまま、彼に子供の頃の自分を重ね合わせていたんだ。忘れていた、
いや、忘れようとしていた自分の本当の面影を、必死に彼の中に追い求めて
いたんだろうな。」
今一度ロケットの中の写真を見つめ、スミレは訊ねた。
「それで、このロケットはどこで見つけたの?」
しばし沈黙した千面相は、ぼそりと呟くように言った。
「吾が輩の育ての親である女性が、肌身離さず持っていたものだよ。」
反射的にスミレは千面相の顔に視線を移した。
相変わらず空を見上げる千面相は、涙をこらえている様にも見えた。
「じゃあ、会えたの?その人に…。」
静かに言ったスミレの声に、小さく頷いた千面相が答える。
「会えるとは思っていなかった。しかし、この写真が吾が輩と彼女を引き寄せて
くれたのかも知れない。
彼女は老い、静かに召される時を待っていた。だが、吾が輩のことは忘れて
いなかった。」
再びスミレからロケットを受け取り、じっと視線を落として言葉をつなぐ。
「昔の顔を捨てていたにもかかわらず、会った瞬間に吾が輩だと判ってくれた。
その姿に、なぜ自分のもとを去ったのかはどうでも良くなった。半月後に、
吾が輩自身が看取った。しかし、その半月の間、吾が輩も彼女も昔に戻って
存分に語り合うことが出来たよ。」
語る千面相の声は穏やかだった。その言葉に悲しみはなかった。そこにあるのは、
愛する人の末期を看取ることの出来た者の、深い安堵と満足の念だった。
スミレは自分の心にも暖かいものが広がるのを感じていた。
目の前にいる男は、人心を惑わす怪盗でも、社会を騒がせる不埒者でもなかった。
当たり前のように人を愛する、一人の紳士だった。
そんな顔も、千面相の持つ素顔の一つなのだろう。
「意地を張らなければ、回り道をすることなどないのにな…。」
千面相はポツリと呟いた。
自分のことを嘆いているのか。真意はわからない。
しかしその言葉は、我が事のようにスミレの胸に響いた。
いつの間にか、傍らで遊んでいた子供たちも向かいの女性たちもいなくなった。
ひときわ強い風と共に、しばしの沈黙が流れた。
じっとロケットの中の写真を見ていた千面相は、黙ってロケットの蓋を開けて
写真を取り出す。
ふと、写真をつまむ指をこすり合わせたように見えた。
次の瞬間、傍らにいたスミレは驚愕した。
千面相の指の中にあった写真はパッと燃え上がった。薬品でも使ったのか。
あっという間に小さな写真は炭化して風に紛れていく。
何か言う暇もなかった。やっとの事でスミレが声をあげたときには、すでに
写真は跡形もなくなっていた。
「何てことするのよ!大事な形見の写真を…!」
我が事のように声を荒げるスミレ。しかし、千面相は黙って指先を見つめていた。
やがて、自分に言い聞かせるかのように低く呟く。
「何もなかったように昔の顔を手にするには、吾が輩ははあまりにも多くの
仮面を被り過ぎた。そして、あまりにも多くのものを捨て去り過ぎた。」
そう言った千面相は、スミレに笑顔を向けた。
「ありがとう。大丈夫だ。吾が輩が過去を、そして過去の顔を忘れる事はもう
ない。何が大事なのかは、ちゃんとこの胸の中に刻んだつもりだ。」
その笑顔に、スミレは訳もなく胸が詰まった。大粒の涙が一粒流れ、苦心惨憺
のメイクの上にひとすじの跡を作る。
そんなスミレを見た千面相は、笑顔のままで空になったロケットを差し出した。
「吾が輩にはすでに用済みとなったものだ。話を聞いてくれたお礼と言っては
何だが、君に進呈するよ。」
とっさに受け取ったものの、意外な申し出にスミレは戸惑った。
手の中のロケットをもてあますスミレに、千面相は優しく言葉を続ける。
「あまり縁起をかつぐのは吾が輩の主旨に反するのだが、これに関しては自信
をもって言える。待ち人、想い人の写真を入れておけば、きっとそのままの
自分、そのままの相手として再び会えるよ。経験者が言うんだから間違いない。
効き目は吾が輩が保証しよう。」
その言葉を聞き、スミレはうつむいた。
そうなのかも知れない。出来ればそうであって欲しい。でも。
「でも。あたし、写真なんて1枚も…。」
最後のほうは聞き取れないほど小さな声になった。どんなに望んでも、ミツ夫の
写真は持ってない。まして、こんなロケットに入れるような小さな写真なんて。
うつむいたままのスミレの傍らで、千面相はやれやれといった具合に小さく
肩をすくめた。
「まったく、つくづく君も不器用な生き方しか出来ない人間だな。あまり遠回り
ばかりしていると、損するだけだと思うがね。」
答えないスミレにもう一度肩をすくめた千面相は、胸のポケットから小さな
紙片らしきものを取り出してスミレに差し出した。
かすかに顔を上げてそれを見たスミレは、瞠目した。
それは、小さく切り抜かれた写真だった。
一日たりとも忘れたことのない、ミツ夫の笑顔がそこにあった。
顔を上げると、イタズラっぽい半笑いを浮かべた千面相と目が合った。
すっかりパニック状態になったスミレは、詰問口調で千面相に食ってかかった。
「な、何で!?どうして!?どうしてあなたが…あなたがミツ夫さんの写真
なんか持ってるの!?答えて!」
喧嘩腰のスミレに対し、千面相は事もなげに言った。
「資料用だよ。」
「資料用?」
おうむ返しに言ったスミレに軽く頷くと、千面相はベンチの背に体を預けた。
「特定の人物に化けるためのダミーマスクを作る場合には、様々な方向から
撮影した顔の多面写真が必要になるのだよ。それをもとに、マスクの原型を
作り起こす。通常、マスクが出来た時点で写真はすべて廃棄するんだが、この
一枚だけは取っておいたのさ。」
そう言った千面相は、まっすぐにスミレの顔を見据えてニッと笑うと、愉快
そうに続けた。
「吾が輩には用済みだが、誰よりも欲しがる人がいるかもしれないと思ってね。」
その言葉を聞いたスミレは、真っ赤になってうつむいた。
おそらく、正体を見破ったのと同じように、この油断のならない男は自分の
ミツ夫に対する想いにも気付いていたのだろう。
しらを切ろうにも、今の狼狽の後では何を言ってもごまかしにしかならない。
写真のせいで、まんまと自分の気持ちをさらけ出してしまった。
言い訳もできないこの場面。スミレはただただうつむき、顔の火照りがおさまる
のを待つしかなかった。
「吾が輩が今日、ここに来た一番の目的はこれだ。最近の君の顔には何となく
覇気が感じられない気がしたんで、これを届けようと思い立ったんだよ。まあ、
ちょっと野暮だとは思ったけれどね。で、どうする?要らないなら捨てるが。」
どうにも、意地悪な言い草だ。スミレは涙目になりながら千面相を睨んだ。
迷いは短かった。
意地を張るのは簡単だ。
だけど、意地を張らなければ遠回りしなくても済む。それは、さっき真実と
して強く感じたばかりだ。
しばしの沈黙の後、スミレは千面相の手から素早く写真を引ったくった。
また、顔が赤くなるのがわかった。
マフラーに顔を精一杯埋めつつ、スミレは小さく、押し殺した声で言った。
「ホントに、あなたってミツ夫さんにそっくりだわ。」
怪訝そうな顔で自分の目を覗き込む千面相に、スミレは言い放った。
「その、デリカシーの欠片もないところが!!」
キョトンとした表情を浮かべた千面相。その顔に可笑しそうな表情が
ゆっくりと広がる。
やがて、大きな笑い声が響いた。
人目もはばからず楽しげに大笑する千面相。
その横で、真っ赤になりながらもスミレは写真とロケットを両手で包み、
小さく笑っていた。
「…ありがと。」
小さく呟いた感謝の声は、嬉しそうな笑い声の中に紛れて掻き消されていった。
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いつの間にか、影が少し長くなったようだった。
千面相は、ゆっくりと立ち上がった。黙って座ったままのスミレの方を見ると
小さく笑って言った。
「今日は、話ができて良かった。付き合ってくれてありがとう。」
スミレもまっすぐに千面相の目を見返し、写真を収めて首にかけたロケットを
手にとると言った。
「あたしの方こそ、本当にありがとう。あなたとお話できて、良かったわ。」
偽りない気持ちだった。千面相もそれを感じ取ったのか、小さく頷いた。
「それで、あなたはこれからどうするの?」
ふと気になったスミレが訊ねた言葉に、千面相は言葉を探した。
「そうだな…。今さら何事もなかったかのように普通の人間にはなれないからね。
とりあえずは、君に倣おうかな。」
「何を?」
思わずスミレは聞き返した。自分の何を倣うというのだろうか。
「待つのさ。遠い世界から、須羽ミツ夫君が、我が最大の好敵手が帰ってくる
のを、ね。君と同じように!」
愉快そうにそう言った千面相は、くるりと踵を返した。
その背中に、寂しさはなかった。
あるのは、信念を貫く男の誇らしさだけだった。
背を向けたまま、親指を立てた拳を振った千面相は力強い足取りで去っていった。
スミレは、晴れやかな気持ちでいつまでもその後ろ姿を見送っていた。
優しい晩秋の風が、2人の間を駆け抜けていった。
=================【完】================
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